場所や内容の細かい部分に関しては、状況に合わせながら流動的に。
1名様から(人数は問いません)。
日程は土日のお昼頃からになります。
費用は場所代とお茶代等ご自身負担分。
場所は京都市内。
ご希望の方の状況により開催の仕方を検討する予定です。
お試しの段階のため、ご希望の方がいればメッセージください。
↓
急遽3月17日(日)13時より開催決定です。(出町柳近辺)
ご希望の方は
snowbliss.snowlight1535★gmail.com
へ★を@に変えてご連絡ください。
]]>出会った時から分かっていた
これがこの世で生きる最期の時
そう感じながら、心の底から愛した
その深い愛を、最期の時に、底知れない痛みと共に手離した
独りになった
独りずつになった時、ふたつの魂が再び繋がり、そして光になり溶け去った
「ひとつ」になった
溶け去った光が生き生きと胸の奥から溢れ出し、光の身体は白く輝きを増しはじめる
我の無くなった意識と、穏やかに広がり続ける至福と、全てへの慈愛とともに
永遠のいのち
永遠のきずな
かつての二人は消え去った
探そうとしてもどこにもいない
二人で過ごした過去もない
溶け合い全てとひとつになった
いまはただ、満たされた存在のみが生きている
「ひとつ」のなかで共に
深い感謝と愛とともに
きっとこの生で二度と会えなくとも幸せであろう
全てのものよ、幸せであれ
同魂の魂の統合
キリストのヨーガ
奥義
思考を観る
思考はそれ自体が転じているものであり、同時に何もないところからやってくるものであり、そしてその作用が終了すると自然と消えていくものでもある
感情がやってきたらそのエネルギーを捉え解放していく
全身で捉えると上手くいく場合も多い
思考と同時にやってくることも多い
どんな恐れも苦しみも冷静に観ずれば解放していく
身体の動きを観じて、自己意志と身体の動きには関連がないことを発見していく
観から離れたと気づいたら、すぐに観に戻る
周囲の環境は自己の未消化のものを解放させてくれる有難いものと捉え、日々の出来事で誘発されて起きてくる自己のすべての反応を観て解放していく
全てを自己の霊的進化の過程ととらえ、生活を丸ごとこの観へ投入していく
これが当たり前になっていく過程で、人によっては一瞥や大悟が起き始め、観るものと観られるもののギャップが落ち、大悟徹底が継続して解脱への準備段階へと移行する
ただし、この変化は一足飛びに進むものでもなく、意識の深化が起こるには、人生に大混乱を来すような出来事が起きることも往々にしてあり得る
またこの力強い修行により様々な能力が出てくる場合もあり、そのパワーの誘惑により道を逸れていくこともほとんどといっていいほどある
そういった危うい状況に直面しても、この修行に没入していけるだけの意思の強さと信は非常に重要な要素となる
そして、この困難な道は、本物の発心の発動があってはじめて最後まで導かれるものとなる
どの状態においても肉体的、精妙体的なエネルギーの詰まりが完全にとれるまでは、闇や魔に取り込まれそうになることがある
必要なことは、どんな状態においても常に聖なるもの、清浄な光を選択すること
無いとも言えず
有るも無いも超えているが
越えるものなどなにもない
説明のできない神秘がただ現れている
完全な生であり、
また完全な夢幻である
滑り落ちていると幸運にも気づいた者は、強烈なプライドや直視するのが出来ないほどの強い慢と対峙することになる
しかし、それに打ち勝てばそれもまた素晴らしい
この刃を渡ることは、神秘的な能力や身体的な能力、知識の量などとは関係ない
どんなカリスマ性も必要ない
むしろその魅力的な能力が足かせになることが多い
必要なのは、ひたすらに真実を見極めようとする純粋な意識、純粋な発心
それを持ち続けることができる者は極めて少ない
あなたはどうだろう
腹の底からの、奥底からの決意があるか
それがなければ成就はあり得ない
]]>非難を浴びるばかりの環境でも、誰にも理解されなくても、胸の奥の純粋さを頼りに全て修行の糧とせよ
称賛や自惚れに囚われず心の曇りを取り除け
どんな体験も掴まず捨て去れ
ひたすら愚直に進むことこそが大きく開ける資質となる
どんなに大きな怒りが起こってもただ過ぎ去るのを待つことが出来るか
どんな慢心の中にあれ、自我の狡猾さから目を背けず、己れの心から逃げずに正直に見定めることが出来るか
この道は全て独り歩く道
どんな聖者であれ、どんな偉大な師であれ、どんなに大きな愛情をくれる存在であれ、誰一人代わってはくれない
たった独りで自らの全てを明らかにして進む道
何が起きようとその勇気さえあれば、どんなことも突破できる
この感覚は、時にとても有効になることがあります
人によっては、神のしもべであるとか、または自動的に動いているであるとか、そういった表現がはまることもあるでしょう
ここで言う「私」というのは個我を表しています
ですから、個我によって為されるいわゆる好ましくないことをしてもいい、ということには当てはまりません
この「私」という感覚を失くす方法は、動静の状態に関係なく「何も為さない」という以外にありません
偽りの「私」を、黙って見極めていきましょう
]]>その発心を最奥に据え進むこと。
魂の奥底からの叫びのような渇望が生まれたとき、人生には更なる波乱が起きる可能性が高い。
なぜなら、本質へ帰還するため、自覚の有無に関わらず、その個人の未完のエネルギー的詰りが次々と浮き彫りになってくるからである。
精神的、感情的、身体的、その他、自覚の有無に関わらず、個人的な差はあるが起きてくる。
目の前に様々な誘惑も現れてくる。
その一切を見極める感覚、自分に必要なものを取捨選択できる力は、純粋な発心から生まれる。
何度も何度もやりきったような感覚は生まれてくるが、最終的に本当の根源に帰るまで、個人や個人としての探求は消えることはない。
しかし、その発心が純粋で本物であれば、必ずあなた自身をその渇望してやまない根源へと導く最大の力となる。